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*** ドライブ手袋生産の適正規模を追求! ***
東予メリヤス企業組合 この耳新しい名前は、今、繊維の町・今治で発展していこうとしている。 数ある繊維企業の中で、竹田徹郎理事長は父竹田喜平氏の跡を継ぎ、地味ながらにも年々業績を上げ、 目標達成になお一層倍旧の努力を成していこうとしている。 今回、テレビでおなじみの小山田宗徳さんに竹田氏を訪ねて頂き、氏の経営理念の一端などを聞いてもらった。
  小山田  早速ですが、企業組合と株式会社というのはどう違うんですか。 竹田  組織の問題ですね。   小山田  と申しますと・・・。 竹田  企業組合というのは、法律的には協同組合法というのがありまして、それに基づいて組織されているわけです。     内容としましては、今よく話題になっている持ち株制度というのがありますが、     これを全く法律上で実施している組織というと、最も分かりやすいと思うんですよ。   小山田  持ち株制度ですか。 竹田  企業組合では、組合員の3分の2以上の人は事業に直接従事しておらなければならないという義務があるわけです。     株式会社ではそのような義務はありません。   小山田  なるほど。 竹田  しかも、従業員の2分の1が組合員でなければならない。つまり、2分の1が持ち株主でなければならないという     法律上の条件があるわけです。   小山田  ああ、そうなんですか。 竹田  ですから、株式会社であれば、経営と出資者は全く分離した状態で何ら問題がないんですけれども、企業組合の場合は     出資者と従事者というのが1つでなければならないわけで、そういった意味では非常に進んだ考え方の組織なんですよ。   小山田  そういうことですね。 竹田  ただ、実態に合って運用されておれば素晴らしいですけれど、実態はほとんど税務対策といいますか、     個人企業からいっぺんに株式とかの大きな企業にするには条件がまだ整わない、     という場合に使われていた例が多いようです。   小山田  なるほどね。 竹田  理想とするところと、実態とは少しズレがあるわけです。   小山田  そうですか。ところで、こちらの設立は何年ですか。 竹田  昭和27年です。   小山田  じゃ、先駆者だったんじゃないですか。 竹田  当時、私はまだ学校へ行っていましたからよく知らないのですが、早いほうだったでしょうね。     おそらくうちの場合も税理士さんから指導を受けて、そういう組織に変わったんだと思います。   小山田  それ以前は個人経営ということですか。 竹田  個人としては、大正の終わりからですから業歴は50年余りになります。   小山田  じゃ、ずいぶん古いんですね。 竹田  日本の作業手袋というのが西南戦争の時に使われたのが最初ですが、最も大量に生産されたのが第2次大戦の時の     軍手でしょうから、業界では古いほうだと思います。   小山田  こちらでは軍手の製造が主体なんですか。 竹田  そうです。     私のほうは作業手袋から始まって、今は運転用のサラシ手袋 ダンプ、タクシーの運転手さん、     それから営業用のバスの運転手さんが主に使う手袋の生産にほとんど切替えています。   小山田  ああ、そうなんですか。 竹田  普通の作業手袋業者ではありますけれども、ちょっと品種を改良して軍手の中では手を加えた製品を扱っています。   小山田  最近ではいわゆる軍手というのはどうなんですか、やはり使われているんでしょうか。 竹田  ええ。現在でも1万台以上の機械が動いています。   小山田  そうですか。 竹田  業者としてもおそらく1千軒ぐらいあると思います。   小山田  でも、軍手っていう名前はいかにも時代遅れという感じがしますね。 竹田  ええ、ですから私どもはもう軍手という呼び方はしておりません。   小山田  作業手袋ですか。 竹田  そうです。     軍手というとどうしても軍隊のイメージに結び付きますからね。業界では軍手の名称は使っていないんですけれども、     一般に軍手というのが浸透していますから。   小山田  運転用の手袋に替えられたとおいうことですが、機械はどうなんですか、違うんじゃないんですか。 竹田  構造上は同じです。ループといいまして、編み目の大きさが大きな編み目じゃなくて、     メリヤス生地のように目のつんだ編み目になるわけで、全く形も機能も同じです。   小山田  すると、転換もスムーズだったわけですね。 竹田  そうです。     作業手袋というのは先程申しましたように、全国で1万台もの機械が動いていますので、     過当競争にならざるを得ないわけです。     それでもう少し収益の上がるものをということで考えた結果、このように替えたんです。     当時は自動車の普及がぼちぼち始まったころだったので、そこに目を付けたわけですよ。   小山田  それがうまくいったんですね。 竹田  現在でも、運転用の手袋の機械が全国で400台ぐらいしかないんです。それぐらい少ない分野なんです。   小山田  じゃ、この地元でもあまりないんですか。 竹田  ええ、作業手袋屋さん自体もこの今治地区にはあまりありません。うちでその機械が80台動いていますから、     全国の20〜30パーセントぐらいをうちで生産している状態だと思います。   小山田  着案されて切替えられたのは、いつごろなんですか。 竹田  うちも一時は加工を主体にしていた時期があったんですが、加工では単価的にももうひとつだということで、     15年程前に切替えたんです。やはりそれには3年間程掛かりましたけれども・・・。   小山田  仕事は安定しているわけですか。 竹田  季節的に多少変動はありますけれども、比較的安定しているほうだと思います。   小山田  現在、何人ぐらい使っていらっしゃるんですか。 竹田  従業員は10人足らずです。   小山田  そのぐらいで充分やっていけるんですか。 竹田  ええ、2交代で操業しています。     以前と違って機械化が進んでいますから、そんなに人数は要らないわけです。     手袋の場合は、このぐらいの人数が最も適正な規模じゃないかと考えています。      やはり、業種に応じた規模があると思うんですよ。   小山田  合理化という意味でも、そのほうがロスが少ないでしょうからね。 竹田  そうです。     今は人の問題が最大の問題点だと言われている時代ですから、     出来るだけ少ない人でたくさんの製品を生産していくということですよね。     また、たまたまこの作業手袋の場合、機械屋さんがそれが可能な機械を開発してくれたからうまくいったんだと思います。   小山田  年商はどのくらいなんですか。 竹田  月商が1千万〜1500万というところですから、年商では1億5千万から2億ぐらいでしょうね。   小山田  しかし、非常に健全かつ堅実な内容といえますね。 竹田  小さいなら小さいなりに、適正な規模で効率のよい内容でいけばいいんじゃないか、と考えてやっているんです。   小山田  お父さんと意見が合わないということはありませんか。 竹田  それはいつもありますよ。     また、それがなければ発展もないんじゃないですか。どっちが正しい悪いということではなしに、     どんな社会でも いろんな考えの人がいて、その中からいいものが出てくるわけで、     1人でやていくのは限度がありますからね。   小山田  確かにそうですよね。営業はどうなさっておられるんですか。 竹田  特に営業というようなことはやっていないんです。   小山田  ほう、なぜですか。 竹田  作業手袋というのは流行もありませんでしょ。     明治の初めのころと現在のものとでは形の上では変化はないわけですよ。     ただ手首に自動的にゴムを入れるとか、そういうことだけなんですよ。     ですから、お得意先に質の面などを知って頂いたら、それ以上の営業というのは必要ないんです。   小山田  なるほどね。 竹田  手袋に合わせて、作業服や作業靴を一緒に売って来るというやり方ですと、そういう営業効果も期待できるでしょうが、     私のところではそういういろんな商品に広げていく方針はなくて、作業手袋の中の1つの分野を掘り下げていくと、     この分野については品質的にも価格的にもどこにも負けない商品を作っていこうという基本方針を持っていますので、     出掛けて行って、どうこうということは必要ないわけです。     もちろん取引きの初めは別ですけれど。   小山田  なるほど。そうすると東予メリヤスさんとしては、この運転用の手袋を主体にずっとやっていかれるわけですね。 竹田  ええ。うちとしましてもまだ目標としているところに達しておりませんので、おそらく5年間程掛かると思うんですが、     それまではこのままでいくつもりでいます。   小山田  それからはまた新しい計画でいかれるわけですか。 竹田  目標に達しましたら、またそれを土台としてがんばっていきたいと思います。   小山田  そうですか。      これからの一層の発展を期待しております。お忙しいところを、どうもありがとうございました。
     [ 国際報道 1976 4(第11巻 第4号) ] 株式会社 国際報道社 昭和51年4月1日発行